流れ水さんより

 福祉、介助労働の現場を去って4年と半年が過ぎました。私は、学校を卒業した時、それまであったいろいろなことですごく自信を失っていました。自分に絶望し、社会に絶望し、誰も信用できない状況にありました。今でも私は、自己嫌悪、人間不信がすごく強い人間です。絶望の中で出会った仕事が、障害者の授産施設の職員という仕事でした。

 私に限らず、人間がこの地球上に登場して社会を形成して以来、ずっと人間が生きていくのには苦難が伴うという社会は続いています。現代には、福祉サービスを利用している人にも福祉現場で働いている人にも、現代社会特有の生きていくことに伴う苦難があると思います。

 そのことについて私自身が福祉労働者であったことの経験を基に考えることを3つあげさせていただきます。

 1つめに、福祉現場で働きながら、自分の体や心の状態をある程度おかしくならないように保ちながら、暮らしていくことが難しい状況があると思います。親のすねをかじるか。もしくは誰かお金のあるパートナーを見つけて一緒に暮らすか。あるいは、家賃を払わずに公園で野宿するか?(ただし、これはそうそうみんながすぐにできるものではないと思います。)そんなことを考えなくてはいけない状況があると思います。
もちろん、ある程度の長時間労働、正社員と同じくらいの労働時間を働けば、それは可能だったのかもしれません。しかし。これは、みんなができるわけではありません。長い労働時間は、体や心を、限界を超えて苦痛な状態にしてしまうことがあります。私のことを言えば、学校を卒業した当時、人との関係の中でいろいろなことがあり、いろいろなことに絶望していた私にとって、長時間労働、正社員と同じくらいの労働時間を働くということはかなり難しい状態でした。福祉現場の低賃金、長時間労働は改善されなくてはいけないものだと思います。もっと給料が保障されて、労働基準法が守られた状況に福祉の職場がなっていかなくてはいけないと思います。職場単位、事業所単位でそれが難しければ、ベーシックインカムとか、福祉労働者への手当みたいな形で、何らかの形で福祉労働者が生活していける状況が、憲法25条を根拠にして保障されなくてはいけないと思います。

 でも、その一方で、もっとお金が無くても人とつながって生きられる生き方、短時間労働でも人とつながって生きられる生き方を模索できなかったのだろうかと思い返しています。そして、今でもそのことは考えています。でも、それは人と合わせることが難しかったり、必ずしもいろいろな人と良い関係を築くことができなかったりする私にとってはすごく難しいです。お金をかけない生き方、人とつながって生きる生き方とかってよく言われるけれど、それを口で言うことは簡単です。でもそれを実際にするのは多くの人にとって、とりわけ人間関係を築くのが下手な人にとっては、とても難しいように思います。
給料上げろ!残業しなくても生活できるだけの給料よこせ!それって言ってかなくてはいけないと思います。でも、それを言ってしまうことと同時に、福祉の仕事って何だろう。福祉の仕事で給料が出ているってどういうことなのだろう。給料とか消費に縛られて生活している生き方っておかしくない。そもそも、そのことと今の介護保険とか自立支援法とかに基づいた福祉が買う福祉になっていることって似てない。そんなことで迷っています。

 2つめに介護保険制度、障害者自立支援法と、全てが制度としてシステム化されてしまっていることが、福祉サービスを利用している人にも福祉労働者にも様々な困難をもたらしていると思います。
サービスの内容が時間単位とお金単位で区切られ、していいこととしてはいけないことが、厚生労働省によって規制され、私たちと障害者や高齢者とよばれる人の関係は店員とお客様のような関係になってしまいました。契約制度、個人情報保護、苦情申し立て制度、ありとあらゆることが制度になり、その制度の中で私たちはがんじがらめにされています。

 そうなったのはなぜなのでしょう。なぜなのでしょうといったところで、はっきりとは分からなくなってしまいました。でも、思い浮かぶこととして、福祉で金儲けをしたい産業界がある。一方で、高齢者や障害者の介助が家族か入所施設の仕事であったという状況があった。その状況で家庭の中では心中や子殺しといった悲劇、施設の中では虐待や管理・隔離といった状況を生み出した。国は福祉に市場メカニズムを導入することで、これらの問題を解決しようとした。そこで、介護保険制度や障害者自立支援法というシステムが登場した。ただし、福祉のサービスというのは、自動車とか鉄のように実体のあるものではない。そこで、それらを無理に商品にするために、国は契約、サービスメニュー、介護報酬などさまざまな制度をつくって制度化した。その制度によって、事業所もそこで働く労働者が縛られている。そういう状況があると思います。

 でも、一方で私たちにも原因があるのかもしれません。なぜ私たちは介助労働や福祉労働を制度にゆだねてしまったのでしょうか?社会の中には多くの偏見、差別や排除があります。あらゆる人間は、生きているだけで差別する主体です。私たちは、学校へ通っている時は、嫌な級友がいなくなればいいと思います。仕事につけば、仕事がうまくいくために、優秀な波風立てずに仕事をしてくれる同僚がほしいと思います。地域に生きていれば、できるだけ波風を起こす人は避けようとします。これらの私たちの日常の生活の営みが、生きることに困難を抱えている人を制度や商品化の中に追いやっているという状況があると思います。
でも、それを言っても私たちは急に変われない。明日からでも社会の中で困難を抱えた人を自分の家につれて帰って生活できるのか?福祉サービスを利用している高齢者や障害者、子どもを家に連れて帰って一緒に生活できるでしょうか?おそらく、それができる人は少ないでしょう。できない。じゃあどうしたらいいのでしょう?悩みます。苦しいです。

 ここまで来て、また分からなくなってしまいました。でも、考えていきたい。悩んでいきたい。何かを割り切って終わりにしたくない。かりん燈での活動を通じて、いろんなことを考えて悩んでいきたいです。

 3つめに、福祉現場の労働者には、社会の中で困難な立場にいる人が多いことをあげさせていただきます。自らの生活に困難を抱えながら、ヘルパーをしている人がいます。子どものころに親から虐待を受けた児童養護施設出身の福祉施設の職員がいます。小中学校時代にいじめを受けていた人や、不登校経験のある人が福祉労働者になっています。病気や障害を抱えながら、福祉施設の職員をしている人がいます。外国籍の人もいます。

 なぜこういうことになったのでしょうか?低賃金で労働環境の悪い福祉の仕事をやりたがる人が少なくて福祉の現場が人手不足だからでしょうか。あるいは、自ら生きる中で困難を抱えた人は困難を抱えて人を助けたいという気持ちにかられるからでしょうか。いろいろと考えられます。

 そもそもでは、こういう状況があるとしたら、ではどうすればいいのでしょうか?
しばしば、福祉の仕事は人の命を預かる仕事である。だから、優秀で質の高い人材を確保し、福祉サービスの向上を目指さなくてはいけないといわれます。そして、外国人や派遣切りにあった人への就職先として介護や福祉が言われるが、そんなこととんでもないと言われます。
 一方で、傷ついたり、つらい立場にある人だったりからこそ、つらい人の気持ちがわかる。そういう人を職員として積極的に雇うべきだという意見があります。それに、福祉の仕事だからこそ、そういう状況にある人も雇うべきだという意見があります。

 私は、この2つについてどちらも正しくて、どちらも間違っていると思います。
前者については、優秀で質の高いって何でしょうか?笑顔が上手い人でしょうか?話の上手い人でしょうか?社会人としての常識を守れる人でしょうか?仕事が速くてきっちりできる人でしょうか?ハートのある人でしょうか?もし、仮に全てそれらを満たした人がいたとしましょう。でも、私は自分自身も福祉現場で働いた経験としてそれらを満たしたすばらしい人たちだけで成り立つ福祉職場がいいとは思えません。むしろ、そのような優れたスーパー人造人間のような人間たちが、社会の中で困難を抱えた人を助けているという感じのビニールハウスのような人工的な空間で、何だかおかしいと思います。

 後者についてはどうでしょうか?傷ついたり、つらい立場にある人は、傷ついたり、つらい立場にある人を助けられるでしょうか?そういうこともあるかもしれませんが、いつもそうなるとは限らないでしょう。残念なことに福祉や介助の仕事をするためには、人が人に対して、何かをすることが可能でなくてはいけないということがあります。車椅子を押すことができなくてはいけない。車いすからトイレの便器への移乗の介助ができなくてはいけない。話を聞くことができなくてはいけない。どこかで、福祉の現場でその現場を利用していく人が生きるために、そしてそこで放置されたり、ひどい状況におかれたりしないためには、介助など、何かがなされなくてはいけないことは確かです。その時に、福祉の仕事をしている人は、困難を抱えている人が多いから、利用者のことはほうっておいていいというのはおかしいと思います。
 
 そもそも、困難を抱えている人が福祉サービスを提供する職員となり、困難を抱えている福祉サービスの利用者を助けている構図っておかしいです。なぜ、同じ生きることに困難を抱えながら、片方は給料をもらう職員でありながら、片方は利用者なのでしょうか?そして、時に利用料を払わなくてはいけなのでしょうか?このような状況を見抜いた福祉サービスや医療を利用する人には、こういうことを言う人もいます。「あんたら自分たちもなんか苦しいから、こういう仕事をしているのだろ。でも、いいよな。自分たちと似たように苦しい人間の上に、医療職や福祉職、心理職、教育職とか言って先生として君臨して給料もらっているのだから。」「俺たちを利用者から、みんな職員にしろよ!」

 どうしたらいいのでしょうか。職員と利用者ということをなくして、すべてがそこの施設の職員であり、利用者であるという実践がありました。福祉職、ヘルパーとか利用者とか言う区分をなくして、全ての人が同時に利用者であり、福祉職であり、ヘルパーであるって空間を作ることはできないでしょうか。現在福祉を利用している人を一斉にそこの事業所の職員にすることはできるでしょうか。もしくは、全てのヘルパーや福祉職が利用者になることは可能でしょうか?私の考えていることは荒唐無稽なのかもしれません。でも、矛盾の中で考えていけば考えていくほどわけがわからなくなります。そもそもこんなこと考えていること自体がおかしいのかもしれません。それでも、いろんなことを感じたり、考えていったりしていきたい。
そのことを許してくれている、かりん燈という場に関われたことを幸いに感じます。

 以上、私がかりん燈での活動を通して考えていこうと思っていることを3つ挙げさせていただきました。
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by columnkk | 2012-03-20 17:37